Story Designs Blog

自分自身の学びや経験を少しでも誰かの幸せに

嫌いなTwitterあるある

こんばんわナオトです。

私はアクセサリーブランドを2つ運営しているのですが、その一つ「Quiet Room」でSNS上にて

 

【Fuck The Coronaキャンペーン】

・欲しいとDMを送ってくれた方に抽選で限定アイテムをプレゼントします

 

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という企画を実施しました。

欲しい方はDMを送って頂くだけで抽選の上発送、というスタイルを取りましたが、結果的に良かったなと思っています。

というのも僕個人としてはこういったプレゼントキャンペーンが好きではありませんでした。

 


今現在、案の定というか様々なブランドさんが同じようにプレゼントキャンペーンをやっています。

僕が昔からこういったキャンペーンを嫌う理由としはほぼ必ず

 


【アカウントをフォロー&リツイート

 


が条件なんですね。

これが好きじゃないので実施しなかったんですが、「なら条件無しにしちゃえばいいか」と思ってDMのみでの受付としました。

これなら他の方にもバレない(?)ですし、やたらめったら応募してるなアイツ、って思われる事もないですしね。

 


そもそも「日頃の感謝を」とか、今なら「コロナで辛い皆に」という事を掲げてキャンペーンをやってる割にはフォローとリツイートを条件にしてるブランドは結局

 

「ただフォロワーは欲しいだけ」

なんですよね。

 


別にキャンペーンの理由はなんでもよくて、もちろん何もお客さんの事は考えてないし

「プレゼントの制作費を考えると広告費としては安いモンだな!」

ってだけ。

 


もちろん僕としてもいろんな機会に自分の作ってるモノを知ってもらいたいし、買って頂けると本当にありがたい。

そうなれば良いなと常に思っていますが、無理矢理拡散させるのは絶対にしたくないし、今後もやる事はありません。

以前から応援して頂いていた方や見ていてくれた方に向けて発信したい、そう思っています。

 

ビジネスとしては僕の考えは綺麗事で不正解なんでしょうが、今は自分が【綺麗】と思う【事】をしていきたいなと考えております。

 

https://quietroom.official.ec

 Twitter@QuietRoom_LS2

 

https://ls2.official.ec

Twitter@LS2_Jewelry

 

(と言いながらさりげにURLを貼って宣伝しておきます)

 

続・少し不思議な話

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こんばんわナオトです。

 

前回から結構時間が空いてしまいました。

 

彼女にまつわる不思議な体験をつらつらと書いていたのですが、

「なぜ彼女が生き急いでいたのか」

という疑問がいつも周りの人間には付き纏っていました。

 

そしてそれは彼女の死後に彼女のお父さんから聞かせてもらった話で少し納得出来たような気がします。

 

時は少し遡って彼女が事故にあった当日の事です。

 

ご両親は当然の如く病院に駆けつけ彼女の病室に行きました。

そして病室の扉を開けて、ベッドに横たわる自分に娘を見た瞬間、「お前だったんかぁ...!」

とお父さんは思ったそうです。

 

 

というのも彼女のお父さんには昔から不思議な体験をたまに経験する方で、娘が生まれて以降頻繁に見るある夢があったそうなんですね。

 

その内容というのが

自分が病院に駆けつける、病室を開ける、するとそこに女性が寝ている、というものでした。

ただ毎回その女性は

「扉を開けると同時にパッと顔を背けてしまう」

そうです。

 

何十回も同じ夢を見たけどいっつも寸前で顔を背けて誰だか分からなかったんだよ、と。

 

そして今回娘の病室の扉を開ける瞬間にふと予感めいたものがあり、扉を開けたその部屋は幾度も見て細部まで覚えているあの夢の中の病室だったそうです。

 

そして現実には顔を背けず目を閉じている女性、それが彼女だったんです。

 

なのでお父さんは

「きっとあの娘は産まれてきた時から死ぬ日は決まっていて、俺もそれを本当は知っていたのかもしれない。」

そう仰っていました。

 

そして

「それであの娘はきっとナオト君の命を救う為に産まれてきたんだよ」

とも。

 

もう何て言っていいのか。

本当に言葉にならなかったです。

 

事実それ以降、以前の記事に書いたように僕の病状は劇的な回復を遂げました。

僕自身も本当に命を貰った実感はあったし、悲しみと後悔と感謝と、いろんな気持ちが入り乱れました。

 

そうまでしてくれた彼女にこんな不甲斐ない自分は何をしてあげれただろう。

一体何を彼女に与えてあげれたのだろう。

 

きっと考えても悩んでも答えは出ないし、全てに感謝して「今を生きる」事しか僕にはできないのだと思います。

 

でも今を生きるって本当に簡単で難しくて。

時が経つと人は忘れていく生き物だし、感謝の気持ちが薄まっていく時もあると思います。

ただほんの少しの間でも生きている幸せをふと顧みる瞬間がこの記事で誰かに与えられたのなら僕も彼女も幸せです。

自分自身への自戒の念も込めて。

 

読んでいただいてありがとうございます。

少し不思議な話

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こんにちわ、ナオトです。

今回は先日書き終えた「死を感じて」にも書いた彼女と僕の周りに起きた少し不思議な出来事を書いてみようかなと思います。

 

僕の家系は一般的に言う所謂「霊感が強い」家系でして、子供の頃から幽霊とかお化け、ってのは当たり前に皆見えてるものだったし、夜中に姉に起こされて「窓の外に幽霊おるから、似顔絵描いたろうや!」と二人でスケッチブック持って窓の外見ながら描いてたり(笑)
それぐらい「日常」だったんです。
まぁ僕個人のそういった体験は置いといて、彼女との間の出来事を。

 

霊感、とかいうと必ず「信じない」とか嫌悪感を示す人がおられるので、実を言うとこういう話を書くのは少し迷っていて。
そんな怖がらそうってつもりも無いし、ただちょっと不思議な話だなーって感じで気軽に読んでもらえればと思います。

 

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

 

19歳で亡くなってしまった当時の彼女ですが、付き合っている時にはそういった霊的な話はした事はありませんでした。
彼女はホラーとかも苦手だったので、霊感とかは一切無かったようです。

話は前後して事故にあったと聞き集中治療室に僕が駆け付けた時の事です。
何が何やら理解が追い付かなかった僕は、意識の無い彼女に


「一体何があったの?」

と声に出して聞きました。

もちろん返事はありませんが、「説明しに来てくれ」とも。

そしてその日の夜。 時間は覚えていませんが、うっすら外が明るくなり始めていたので、5時ぐらいだったと思います。

僕がベッドで寝ているとふと彼女がいつも着けていた香水の匂いがして目が覚めました。
僕は「あぁ、来てくれたんだな。」と何の違和感も無く思いました。
目を開けていると消えてしまいそうで、目を閉じその懐かしい匂いを嗅いでいました。

するとベッドの端、ちょうど自分の頭の所に気配を感じます。
ベッドの頭側からお辞儀をするようにして僕の顔を覗き込んでいるのが気配で分かります。
目を瞑っていても瞼越しにふっと暗くなり、彼女の匂いが一層強まります。

一般的には「え!何、怖い!」って思うのかもしれませんが、そんな感情は微塵も無かったですね。ただ嬉しかった。

すると唇に触れる感触が。
すぐに彼女の唇だと分かりました。
ラブストーリーにあるような(?)しっとりとしたキスではなくいわゆる

「小鳥キッス」と呼ばれる「チュッチュッ!チュッチュッ!」という様なキスでした(笑)

 

ちょっと吹き出しそうになりつつキスを受けていると今度はくるっと僕の上に覆いかぶさり抱きついてきました。
僕の胸に顔をうずめて子犬がじゃれつくように顔を「ン~~~!」と擦りつける彼女。
僕はただ幸せで、今までのように彼女を抱きしめていました。
どれぐらいそうしてたのか分かりませんが、数分だったのかな、あれ?っと思い目を開けました。

自分の身体が天井近くまで浮いていました(笑)

 

下を見ると幸せそうに寝てる僕。
胸には僕を抱き締めている彼女。
一瞬にして状況を理解しました。


「え、コイツ 俺を連れて行こうとしてんじゃね?」と。

 

そこで僕は慌てて「アカンアカン!一旦おろせ!」と彼女に言いました。ハッとしたように彼女はそのまま僕をおろし、無事に(?)身体に戻った僕は彼女に向って「ちょっとそこに座りなさい!」と部屋の真ん中を指さして言いました。

さっきまでのロマンティックなムードはどこへやら、生霊として会いに来てくれた彼女への説教タイム突入です。

部屋に正座する彼女は古典的にベロとか出しちゃって、テヘッ!みたいな顔してます。

 


「つい逢えたのが嬉しくて・・・テンション上がっちゃって」

 

テンションで僕を連れて行こうとしてました、彼女。
さすがです僕の彼女。

連れて行こうとした事はさておき僕は聞きたかった事故の原因などを矢継ぎ早に聞きました。
その時の彼女曰く、友達が運転する車の助手席に座っていて遊びに行こうとしていた事、強烈なブレーキ音がしてパッと自分の左の窓を見たら窓ガラスのすぐ手間にまでトラックが迫って来ている光景だったこと、気づいた時にはもう遅かったんだ、という事。

当然ですが後日判明した事故の状況はまさに彼女が教えてくれた内容と全く同じでした。

彼女に言ってあげれる言葉が何も見つからず、「そうやったんか。」
ぐらいしか言えなかったのですが、彼女は意外にスッキリとしているような印象を受けたのを覚えています。

結構あっけらかんとしてました(笑)

そして僕をコッソリ連れて行こうとした事について、今は一緒に行ってあげる事は出来ないんだ、という事を伝えると初めて彼女は悲しそうに涙を浮かべながら「・・・はい。」と返事をしました。
正座しながらしょんぼりと泣いている彼女に僕は

 

「でも俺が死んだらあの世で結婚してずっと一緒にいよう」

 

と伝えると 「ほんとに!!!ヤッターーー!!」とさっきまで泣いていたのは何だったんだと言わんばかりの笑顔で喜んでいました(笑)
そしてちゃんとしたお別れも言う間もなく

「嬉しいー!じゃあ待ってるね!」と言いながら、
ホントですよ?嘘じゃなく

 

スーパーマンが飛び立つみたいに両手を挙げてジャンプして天井に消えて行ったんです。

「ヤッターー!♪」って言いながら(笑)
こんな霊(?)は初めてやなぁ、と思いながら思わず笑ってしまいました。

その日から約1ヵ月半後に彼女は亡くなりました。
もちろん悲しみや喪失感は耐え難いものでしたが、あの晩彼女が会いに来てくれていなければ、僕は生きていられなかったかもしれません。

それにもし自分で死を選ぶような事をしてしまえば、あの世で彼女と同じ場所に行けないかもしれない、という思いもブレーキになってくれたのかもしれません。

少し長くなってきたので今回はこの辺で。
次は なぜ彼女は事故という悲惨な目に遭いながらも、どこかスッキリとしていたのか、なぜいつも彼女は生き急いでいたのか、その辺りの謎がこの後分かった時の不思議な話を書いていこうと思います。

 

死を感じて 其の四

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こんばんわ、ナオトです。

今回でこの備忘録とも日記とも言えない文章は一応最後となります。

 

story-designs.hatenablog.com

 

 

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では前回の続きからを少し最後に書いておこうと思います。

 

彼女が亡くなってしまった後も僕の治療はもちろんずっと続きます。

基本的には抗癌剤の点滴を通院で投与していました。

これがまたツライし体中の激痛に耐えられないんです。

嘔吐もすごいので枕の隣にはずっと洗面器が欠かせないし、

ガンになって一番辛いのはやはりこの抗癌剤でしたね。

 

投与量も多いので8時間から時には10時間ぐらいかかった事もあります。

知ってましたか? 

体中の血管が死んでいくんですよ(笑)

その時に初めて聞いたんですけど、劇薬を流し続けた血管はどんどんドス黒くなっていって最終的には硬いゴムチューブの様になって死んでいくんです。

普通に手でつかんでゴリゴリできるぐらいに掴めるんです!


さらに驚きなのが先生曰く、一本血管が死んだら、

また一本新たに血管が生まれるんだそうです。

人体って不思議だなーって思いますよね。

 

 

・・・・話それましたね。

 

 

その抗癌剤投与を打った日から3日連続で抗癌剤の副作用を抑える筋肉注射を打ちに通わなければなりません。

これが確かすっごい小さい注射なのに一本あたり7000円ほどだったのでビックリした記憶があります。

それを打つと2日動けるようになって、また点滴、というような繰り返しの日々でした。

 

 

ですが彼女が亡くなった直後から不思議な事が起こりました。

 

 

この点滴の永遠かと思うような激痛が全く無くなったんです。

痛みが和らぐ、とかではなく「全く」痛みがなくなったので先生も非常にビックリしていたのを覚えています。

ある婦長さんは「彼女が助けてくれたんやね」と僕の手を握って泣いてくれました。

 

それ以降は本を読んだり、音楽を聴いたりしながらベッドの傍に置いた

彼女の写真立てを眺めたりしながら点滴時間を苦も無く過ごせるようになったんです。

 

 

この時ぐらいに「あ、自分は死ぬ事は無いんだな」って確信しました。

 

 

彼女が守ってくれてるっていう実感があったし、

「死を感じて」と題したけど、思い出しながら書いていると

「死を感じる」という事は「生を感じる」事なんだなと改めて思いました。

よく生と死は表裏一体、というような事を言いますがまさにそうで。

 

この数年間の出来事は間違いなくその後の僕の礎になっていると思います。

 

 

 

「その後」と言っても、これを書いている現在もその後な訳で悲しみや

感情は薄まってはいくものの消えない想いもあるわけで。

特に「後悔」ってのは消えたと言ったら嘘になってしまいますね。

 

でもあらゆる事に対する考え方は変わったと思います。

その日以来「後悔」は一度もしたことがないし、

不幸せを嘆くなんて事は1mmもなくなりました。

あと月並みだけれど最も大事な事は

 

「今日が最後だと思って生きよう」って事です。

 

 

大事な人には必ず想いは全て伝えるようになりましたし、

明日突然この世からいなくなってしまうかもしれない、と思いながら

接するようになりました。

 

もちろんそれ以降、恋人と喧嘩をするって事も10年以上一度もありません。

これって口で言うより本当に難しい事だと思います。

 

みんなに同じように思ってもらって、愛する人と喧嘩もする事なく幸せに生きて欲しいと願っているけど、なかなかそうはいかないみたいで。

実体験しないと分からない、と言われればそれまでだけど

 

「できれば傷を伴わずに幸せに生きてもらいたい」

 

って想いでこんな記事を書いたりしているっていう側面もあります。

 

 

こういう体験を書いたり話したりするのって、「えー不幸自慢?」とか

「お涙ちょうだい話って感じでサブイ」とか思われがちなんですよね、正直。

 

でも100人に1人でも僕の話で何か買われるキッカケになったり、

気付かなかった幸せに目を向ける事が出来たのなら価値があるわけで。

99人にサブイと思われても話をした意味があるなって思うんです。

 

 

 

 

んーやっぱり何年経っても上手く言葉では纏められないですね。

伝えたい想いとか経験した感情などが溢れてきて収集がつかなくなってきちゃう。

 

彼女の死後に起こった霊的な事とかちょっと神秘的な事とかたくさんあるんですけど、それはまたいつか機会があれば書いてみるかもしれません。

僕は子供の頃からそういった類の経験が豊富なのですが、好きじゃない人とか信じられない人もたくさんいるかもしれないですしね(笑)

 

総括、するのは難しいけれど

 

「人は誰からの記憶にも残らなくなった時もう一度死ぬ」のだと思います。

 

誰かが死ぬ、っていう事はとても悲しみを産む事だけれど、

その人の死はその周りの人達に「生きているという事」を感じさせてくれるし、

その人達の命の火を一層強く大きく燃え上がらせてくれるものだと思います。

 

1人の死がたくさんの人の生を、そしてその人達が死ぬ時にまたたくさんの人に生を、

というように、人の死を紡ぐという事はどんどん幸せを増やして産んでいく、

という矛盾を孕んだ命を螺旋を描いていくのだと思います。

悲しみに泣きくれる事もあるけれど、愉快な時だけ思い出して涙に溺れる事も大事で。

亡くなった人を、その命の灯を受け継いでより強くしていく事が残された者の

使命であり、すべきことなんじゃないかと。

 

ずっと忘れず受け継いでいければもうあの人は生きているのも同じかなって

思ったりするんです。

大事な人を二度亡くさないよう、今日一日を笑顔で感謝して、

幸せを実感して生きて行こうと。

 

 

 

だからこれを偶然にも目にした方達にお願いです。

 

 

貴方の大事な人が明日死んでしまったら

 

という事を真剣に鮮明に想像してみて下さい。

 

言い忘れた事はないですか?

 

伝えたい想いは本当にないですか?

 

その時感じた想いをどうかどうか伝えてあげて下さい。

 

それが僕の願いです。

 

 

 

読みにくい部分もたくさんあったのにここまで読んで下さった珍しい方?

また後日談など書くかもしれませんが、今回でこの備忘録は終わりにしたいと思います。 ありがとうございました。

 

 

死を感じて 其の三

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明けましておめでとうございます、ナオトです。

前回から少し期間が空いてしまいましたが前回からの続きを書いておこうと思います。

まだ未読の方は最初からお読み頂ければ。

 

 

story-designs.hatenablog.com

 

 

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前回は僕の病気が判明し、少し未来がクリアーになったという所まで書きましたね。

 

話を少し過去に戻します。

 

 

僕には当時同じバイト先にお付き合いをしている女性がいました。

彼女は当時18歳、僕は21歳だったので年下の可愛い女性でした。

そんな中 前回に書いたように僕の体調が徐々に悪くなっていったのです。

 

彼女に心配はこれ以上かけたくなかったし、いつ死ぬかどうかも分からない彼氏を

看病させ心をすり減らせる事は僕には出来なかったし、

正直そんな余裕も僕には無かったんですね。

 

そこで僕は別れを切り出しました。

 

発病してからの約半年でほとんどの記憶を失っていましたが、

この当時の事は今でも覚えています。

彼女との最後のデートの記憶は僕の12月の誕生日、

誕生日プレゼントをもらって一緒に撮ったプリクラ。

そんな日からしばらくしてからだったと思います。

 

何かありがちなラブソングの歌詞みたいですね(笑)

 

でもこの時のプリクラを見ると自分のゲッソリ具合にゾッとします。

彼女はすごく真っ直ぐで、当時から思った事は全力でやるという女性でした。

愛すると決めたら全力で愛す、一秒だって無駄にしたくない、そんな人で、

周りからも「なんでいつもそんなに生き急ぐの?」

そう言われるような性格でした。

 

なのでただ「別れたい」と伝えても頑として聞く耳を持たないという事は明白でした。

「いつまでかかるか分からない僕を待たせていたくない」

と伝えても絶対に言う事は聞かないと思ったので、

 

「正直、もう好きではなくなったんだ」 と嘘を言いました。

 

「君のそのがむしゃらで全力の若さや子供っぽさについていけない」とも。

 

予想通り泣いて嫌がりましたが、想像してたより早くその場は受け入れてくれました。

そこから時期から僕は本格的に治療と闘病に入った時期なので、

検査や治療に全ての時間を病院で過ごしていました。

何度か当時のガラケーだった携帯に近況を報告するメールが

彼女から来ていたぐらいで不思議に思うほど落ち着いていた様子でした。

 

 

なので彼女の別れた後の行動を知ったのはもっと後から、最悪のタイミングででした。

 

 

 

 

それは年も明けて数か月だった春、4月。

前回の記事の終わりの頃に話は戻ります。

僕は徐々に快方に向かい、命の危機の峠は越えたと僕も周りも一安心した頃です。

ちょうど彼女の誕生日が4月中旬だったので、

その日に体調を整えすべての本心を伝えに行こうと思いました。

 

「本当は嫌いになんかなってないよ、ずっと一緒にいたいんだ」と。

 

久しぶりの外出に清々しさを感じながら、簡単な誕生日プレゼントを買いました。

「Happy Birsthday」が流れる小さなアンティーク調のオルゴールでした。

 

彼女が暮らしていた実家に行ってインターホンを鳴らしましたが、

驚かそうと突然行ったので誰も居ませんでした。

 

今思うとバイトとかしてたら当たり前ですよね(笑)

 

そこでポストに簡単な手紙と一緒にプレゼントを入れてその場は帰りました。

その帰り道、車中で彼女の家から着信があり出てみるとそれは彼女のお母さんからで、

その時はどんな受け答えをしたのか、その後どうやって帰ったのか覚えていません。

 

 

「プレゼントありがとう、あの子昨日事故にあって今集中治療室にいるの」

 

 

 

 

19歳の誕生日の前日に、です。

 

僕が本心を伝えようとしていた前日に、です。

 

 

 

 

 

友人の車の助手席に座っていた彼女はスピード違反をして突っ込んできたトラックに激突されたんです。

しかも彼女が座る助手席の方へ。

 

そして悲しい悲しい現実を伝えられました。

 

トラックの運転手と同乗していた友人は軽い怪我で済んだそうですが、

彼女は意識不明の重体。

 

恐らく意識はもう戻る事は無いだろうって事を。

 

万が一、意識が戻ったとしても首から下は全く動かないという事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

初めて入った真っ白い集中治療室で久しぶりに彼女を見ました。

そんな大事故にあったとは思えない程キレイで。

普通に寝てるみたいでした。

布団に隠れてる身体はもうボロボロだったそうですが、

きっと最後にキレイな顔を僕に見てもらいたかったんだと思う、

ってお母さんが言ってくれました。

 

もう、泣く事もできないほど受け入れられなくて。

気を利かしてくれて一瞬だけ二人にしてもらえた時に、声をかけました。

 

 

「俺だよ、何があったん? なんで・・・」

 

そうつぶやくと意識の無い彼女の目から涙がこぼれたんです。

 

すーーーっと目から涙が耳に伝っていくのを見た時、合わせ鏡の様に僕も泣きました。

 

 

医師が言うには目にたまった涙がこぼれる場合もあるんです、と教えてくれましたが、

「もしかしたらあなたの声が聞こえたのかもしれませんね。」

とも言ってくれました。

 

 

その夜ご両親に彼女の近況の話を聞きました。

彼女は僕と別れたあとすぐに

「子供っぽいと言われたから大人になって待っていよう!」と言いだし、

大人と言えば自立している、という事から実家を出て、住み込みで仕事を見つけ

寂しがり屋だったくせに一人暮らしをしていた、との事でした。

 

生活がちゃんと落ち着いてお金もしっかり稼げるようになったら

僕を驚かせようと内緒にしていた事も初めて知りました。


そして絶対にまた振り向いてもらうんだ、とがむしゃらに頑張っていたんです。

 

 

 

もう悲しく悲しくて、てつらくてつらくてつらくて。

 

 

 

本当に辛いのは彼女だし、ご両親に比べたら僕の悲しみなんて大した事じゃない。

 

けど後一日、早く会いに行っていれば未来は変わっていたかもしれない。

本当の気持ちをもっと早く伝えていれば事故に遭わなかったかもしれない。

そんな後悔の念は正直今でも完全には消えていません。

 

 

 

 

 

その日から約2か月後、彼女は消えるように死んでしまいました。

 

僕に「嫌われている」と思ったまま、死んでしまいました。

 

 

 

その訃報が届いたのは朝6時前。

不思議と目が覚め、直感で「あ、死んだんだな」と分かりました。

 

ベッドから出て、床に携帯を置いて前に座ってすぐ電話がなりました。

すぐに電話に出た僕に彼女のお母さんは少し驚いていましたが、

ふっと息をついて「ナオト君のとこにはもう行ったんやね」と合点が行ったようでした。

 

 

「本当は愛している」

「嫌いになったのは嘘だったんだよ」

 

僕がついた嘘と伝えられなかった本当の想いを伝えられなかった。

この後悔がこの後もずっと僕に重くのしかかりました。

 

 

其の四へ続く

 

 

死を感じて 其の二

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こんばんわ、ナオトです。

前回の記事で病名を医師に伝えられた所まで書きましたね。
まだの方は前回の記事を先にご覧いただくと幸いです。

 

 

story-designs.hatenablog.com

 

自分の病状を告知された時は意外とショックとかはなくて

「へぇ~そんな状態なんだ」って感じでした。
というのも体調が悪くなってから判明するまでの約半年間は、苦し過ぎてしんど過ぎてずっとおぼろげな状態なんですね。
これは体調が回復してから気付いた事なんですが、半年間の記憶が大半無くなっていました。
お見舞いに来てくれた友人や、印象的な出来事、はてには病気になる前の記憶に至るまで、穴あきチーズの様に欠如していました。
後日周りから聞かされて少し思い出す場合もあれば、聞いても何も思い出せない事もありました。
医師曰く、
「あまりにも苦痛がひどくて、記憶を消さないと生きていけなかったのでしょう。」という事でした。

確かに当時の事を鮮明に覚えていたとしたら生きていけた自信はないですね。
結局僕の病気は「ホジキン病」という悪性リンパ腫でした。
簡単に言うとリンパ腺に出来るガンで、発見者のホジキンさんという方から由来するようです。
当時で日本人では20万人に1人ほどの珍しいタイプだったので発見が非常に遅れたんですね。
またリンパ腺は全身に張り巡らされているので全身に回るのも早くステージ
の進行が早いのが特徴でした。

そこから僕の治療の日々が始まりました。
最初は一日の大半を費やして検査検査の日々。
そして最も苦しいのがご存じ抗癌剤です。
僕の場合は1日8時間ほど抗癌剤を点滴で投与するのですが、とにかくつらい。
具体的に何がツライのかと言うと、「吐き気・全身痛」が延々と続きます。
病気発覚前の全身痛とはまた違う種類で、抗癌剤が流れる体中の血管という血管が激痛でした。
吐き気も止まらないので、僕の場合はベッドの枕の隣に洗面器を置いて吐きながら全身痛に耐える、という一日が続きました。
子供の頃からずっとスポーツやトレーニングをしていたので、自分で言うのも何ですが筋肉もあり、かなり良い体格をしていましたが、60kgあった体重は36kgにまで減りました。
筋肉も減り、階段は自分の力では3段も上がれません。
歩くのも難しいので移動は基本的に車いすを押してもらっての移動でした。


当時は効果的な薬も分かっておらず、何が効くか分からないので片っ端から試すしかないという状況で、
「この点滴はイマイチ駄目でしたね。 次のに替えてみましょう」
という感じでなかなか効果的な薬が分からない状態が続きました。
病室には他府県からも様々な医師の方々がやって来てメモ帳片手に僕にいろいろ聞いてくるんです(笑)

「え、白い巨塔?」

って感じです。
なかなか凄い光景ですよ、病室の中に白衣を着たオジサン達が大勢入れ替わり立ち代わりやってきて、どこが痛いかとか、今回の薬はどんな感じだったか、等を聞いてくるんですね。
しんどい時もありましたが、それほど僕の病気は未開拓のもので、これが誰かの役に立てば、という思いで話をしていました。
ちなみに今から数年前にこの病気の薬が確定した、というニュースがあったので当時の僕の治療が少しでも誰かの治療に役立ったのかな、と思うと非常に嬉しく思います。

 

話を戻して入院して抗癌剤を投与し始めてからは確かに病名が分かる以前のような苦しみは緩和されました。
ですが薬が効き始めの頃は以前から続く全身痛と抗癌剤による副作用の両方の苦しみがあり、夜中に苦しさのあまり院内を徘徊するという事も少なくありませんでした。
おぼろげな記憶の中で印象的なのは、僕が体が痛すぎて身体を冷やしたいと無意識に思ったのか夜中に病棟の廊下に身体をこすりつけていた事があったんですね(笑)
今思うとなかなかに怪しい光景ですが、それを見つけたナースの方がナース全員を呼んできて僕をナースの方達が待機している場所に連れて行ってくれ、長椅子をいくつもならべベッドを作り、5人がかりでずっと僕の身体を看護してくれた事でした。

実際には冷やすのがいいのか、温めるのがいいのかも誰も分かっていませんし、単純に痛みが一時的に紛らわせられるだけなのですが、全員で氷嚢を作って両手両足と身体全身をくまなく冷やしてくれたり、しばらくすると
「今度は温めてみよう!」とホッカイロをありったけ近くに買いにいって全身に押し当てて温めてくれたり、お湯や水に浸したタオルを代わる代わる身体にあててくれていたり。

全員がです、しかもずっと。 朝までずっとです。

この時の事は今でも覚えています。 不思議な事ですが簡単に言うと
「物凄い幸せ」でした。
言葉では言い表せないのですが、たくさんの人が何とかしようとしてくれるあの安心感と、包み込まれるような愛情。
病気になってから初めて心がほぐれるような感覚を味わいました。

そんな方々のお蔭で、僕の病気は少しずつ回復に向かいました。
末期ガンではありましたが、峠は越えたとの事で退院のメドもたち、検査であけくれた僕の入院生活は意外にも1か月と少しで終わりました。
これからは通院による抗癌剤治療が続きますが取りあえずは命は取り留めたという安心感もありました。

ですが本当の地獄はここからでした。
今までが天国だったんだって思うぐらいに。

 

其の三へ続く

死を感じて 其の一

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こんにちわナオトです。

書いてなかった自分の事を簡単に書いておこうかと。

 

始まりはアメリカ留学から帰国してしばらくの21歳頃でした。

毎日微熱が続き、風邪かと思ってましたが薬を飲んでも病院に行っても熱が下がらない。
不思議なもんで毎日微熱だと慣れてくるんですね。
そんな日が1か月続いたある日、バイト先で倒れました。

風邪ひいたりすると、首のリンパ腺が腫れたりしますよね、あれがその時はすっごい腫れてました。
どのぐらいかと言うと片側の首が顔のフェイスラインと平行になるぐらいと言えば分かりやすいかな。
片側は首がなくなってる感じでした。

そこからはいろんな病院に行きました。

「うーん、うちでは調べた結果分かりませんね。○○病院に紹介状を書きますから行ってみて下さい」

この流れが実に半年続きました。
6か月間も判明しないんです。

その間の症状は自分で思い出しても恐ろしいです。
「地獄」とはこの事かと感じたのを覚えています。
基本的に6か月間毎日40度以上の熱があります。
それに加えて全身の激痛。今までに感じた事の無い激痛が全身にでした。
寝るなんてもちろん出来ませんし、じっとしてる事もできないので転げまわるようにのたうちまわる毎日毎時間毎秒。
一日6錠まで、と決められている強力な鎮痛剤をラムネのようにむさぼり、ほんの数分痛みが和らいだ時に、ご飯を食べます。
もちろん何でも食べられる訳じゃないので、その時口に入れられる気分の物だけを食べます。
不思議なものですが、ある1週間はブロッコリーしか食べられない、ある1週間はヒラメの刺身しか口にできない、という様に限られた物しか口にできませんでした。
食べても飲んでも全てすぐに吐き出すのであまり意味は無いかもしれませんが、食べないと始まらないので少しでも口に入れました。

≪寝る=気を失う≫でした。
不思議とその頃は仰向けに寝ると息ができないんですね。
「苦しい」というか「溺れる」んです。
なので枕を高くして顔を少しでも上げていないと呼吸さえできませんでした。
他に印象深いのは「寝汗」です。
全身が痛いので布団も4枚重ねて寝ていたんですね、なるべく床からの刺激を感じないように。
でも朝起きると布団がペチャンコになっているんです。
全部寝汗でべちょべちょになって。
しかも信じられないかもしれませんが、

8畳ほどの部屋のフローリングの床に「水が溜まってるんです。」

部屋の中に巨大な水槽の水をひっくり返したように、水が溜まってる。
それが全部「寝汗」で、です。

「死ぬんだろうな」

悲観的や悲しみに暮れながら、という訳じゃなく普通にそう思いました。



その間はそれこそ東洋医学・西洋医学・漢方や除霊までありとあらゆる方法を試しました。
今思うとその時の両親の心配と心労は計り知れなかっただろうなと胸を痛めます。

どこに行っても判明しない病気が分かったのは7か月目の「京大病院」でした。
京都の中でも最も大きな病院の一つで、厳密にはそこでもわからなかったので、

「リンパ腺の一部を手術で切除して検査しましょう」

という事になり、早速手術へ。
最も腫れていた首のリンパ腺を局部麻酔で切り開きます。
麻酔が効いているので痛みこそ無いものの、レーザーによる肉の焼ける匂いは今でも覚えています。

首を切り開いたものの腫瘍が大きすぎて何と断念(?!)

ビックリですよね(笑)
先生同士が話してるんですよ、「でか過ぎるな・・・コレ」的な事を(笑)
そんでその日は縫い直して中断!
後日脇の下のリンパ腺を切除する事に決定し、帰宅。

そして当日、予定では日帰り手術だったので切除した後は帰って検査結果待ち、という予定でした。

そして今度は全身麻酔で手術をし、目が覚めた頃には周りの空気が変わっていました。
帰宅予定だったのが即入院という事になりました。

その短時間だけで医師が理解した緊急事態は

「リンパ腺の腫瘍の正体は検査しないと分からないけれど、心臓病と肺水腫(肺に水が溜まる)を併発しています。」

という衝撃の内容でした。
肺に水が溜まっているから仰向けに寝たら溺れて呼吸ができなかったんですね、それによって呼吸が正しくできず心臓に負担がかかり心臓病になった、と。
そしてそのどれもが命の危機にあるレベルだと言われました。

そしてそのまま即入院し、数日後の検査結果で聞いたリンパ腺の腫瘍の正体はリンパ腺の悪性腫瘍、つまりガンでした。
またそれが日本人には「20万人に1人もいない珍しい病気だった」という事が発見をここまで遅らせたのです。

そして医師はテレビドラマでよく見る告知シーンとは全く違い、普通に僕と僕の家族の前でこう告げました。

「ナオトさんの病状はステージ4の末期ガンです。」と。

 

其の二へ続く